日本係わる現象
なたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしをねたむものには、父の罪を子に報いて、3、4代に及ほしと述べられたエジプト記の20(5ー6)にたどりつく。カルヴァンによれば、この世のすべての人聞は、アダムとイブが知恵の木の実を食べて以来、等しく原罪を背負ってしまったという意味で、平等な存在と規定される。先に触れたように、ラコフは、このような平等に平等の堕落というレッテルをはった。ホッブズは、16世紀のカルヴァンを介した救済史観を世俗化し、自己の政治哲学を構築したが、そのなかで平等をも世俗化したのである。救済史観を祖型を湖源すれば、つぎのようなシェーマにたどりつく。自然状態人聞の自由意志による悪の出現(ホップズの場合の自然状態は即つまり戦争状態である)終末メシアの登場最後の審判魂の救済。問題はホッブズが、その祖型をどのように世俗化したかであろう。ホッブズは、神学の最終的目的であったの彼岸での人間の魂の救済を、此岸での生命の救済に変換するという形で、救済史観を世俗化した。人聞の目的としての此岸での生命の救済の世俗化は、擁護の立場から、神の下のすべての者の平等という観念を、彼岸の世界に実現される、遠い希望に追いやってしまい、此山序正の世界の不平等を正当化してしまったが、ジュネーブの宗教改革者、カルヴァンは、このような平等観をひつくりかえしてしまい、人間は、むしろ此岸では平等であり、彼岸では、神による最後の審判を介し、不平等になると叫んだ。